2008-06-20(Fri)
『沙耶の唄』感想
気分屋な自分ですので、気まぐれに書いてみました。
沙耶の唄が純愛であるか否か?という話題がありますが、どうなのでしょう。
世界を捨てた彼らは互いさえいれば良いと思うようになっている節があります。
しかし、世界を捨てた彼らにとって、相手すらも必要ないのではないでしょうか。
相手が本当のことを言っているという絶対的な証拠はないわけです。
理解していると思っていた親友の郁紀に耕司は裏切られました。
また、受け止め方(感じ方)が変わってしまえば、価値観などいくらでも変容することは郁紀が経験してきたことです。
ゆえに絶対的な価値というものも存在しないように思います。
例えば、他者が幸せかどうかの判断をするのは、最終的には自己でしかないのではないでしょうか。
沙耶と郁紀は逆の立場にありました。
自己を許容してくれない世界に在った沙耶、自己が許容できない世界に在った郁紀。
郁紀の価値観の中で“是”とされた沙耶を求め、沙耶もまた自身を“是”としてくれた郁紀を求めるようになります。
是とできなことを悩んでいた、是とされないことに苦しんでいたはずが、受け入れられる、受け入れてもらえる対象を得てからは、問題として上がらなくなるんですよね。
干渉こそが問題であって、関ってこなければ彼らは平穏に暮らせたような気がします。
しかしながら、“是”を求めた彼らが迎えた結末に、はたして対象が実在している必要があるのでしょうか?
例えば、元の世界に戻った結果、自己の世界に閉じ込められることになったとして、対象の幸せを願い続けるだけ、幸せに暮らす姿を夢想するだけになった場合、触れることのできない対象が存在している必要があるのか?
自己の世界の外に存在し、触れることのできない対象は本当に存在していると言えるのでしょうか?
例えば、死に別れる瞬間、対象との幸せな生活が自己だけにみえたとして、その瞬間に対象が存在していると言えるのか、存在する必要があるのか?
例えば、自己の価値観に沿った世界に生まれ変わったとして、自己以外の存在が本当に存在しているのか。自己を許容しない存在が全くない世界とは成しえるのか?
許容するという理解を求めた場合、最終的には自己の中で完結しているような気がします。
郁紀にとってはどれもがハッピーエンドと言え、彼と数人を除いては、どれもがバットエンドと言えるような気がします。
「おかえり」という台詞はどのエンディングからも繋がるのではないかなぁと。
こんなふうに書きましたけれども、沙耶を得るために世界を捨てているわけで、何かしらの他者を求めているんですよねぇ。
沙耶の唄が面白いのは、沙耶という生物が本来持っている行動と沙耶が郁紀を求めた結果辿り着いた行動が同じということかなぁとか思います。
繁殖行動の過程として恋愛行動を理解したために繁殖できなかった沙耶。
郁紀と出逢ったことで行われることとなったそれは、沙耶という生物が持つ特性からだったのか、それとも恋愛の結果なのでしょうか?
沙耶の唄で描かれているのは純愛なのだろうか。
沙耶の唄で描かれている愛は呪詛ではないだろうか。
沙耶と郁紀の物語が愛であるならば、それによって周囲を、最終的には世界をも崩壊させました。
世界を侵す愛(恋)ではなく、愛が世界を侵すのではないか。
探究心によって沙耶を愛した奥涯のように
友情によって身を滅ぼした者のように
出逢ったがゆえに、それ以外を失う男のように。
それはね その砂漠に――たったひとりだけでも――花を愛してくれる人がいるって知ったとき
・・・・・・わたしを愛してくれた、あなたに・・・・・・この惑星を。あげます・・・・・・
少なくとも一般的な恋愛感情で始る物語ではないと思います。
そして恋愛の過程を描いてもいない。
奥涯は沙耶の開花は愛すること、愛されることがなかったから行われなかったと書きました。
しかし、沙耶の開花は愛がなければ成り立たないが、その行動自体は生物の持つ機能であるとして書いています。
これは、開花という現象が純粋に愛だけによるものではないことを示唆しているのではないでしょうか。
あるのは始まりと終わり。
果たして本当に、彼らの物語は愛であったのでしょうか。
そもそも“本当”というものがあるのかどうかすらわからない気がします。
妄想を一つ。
もし、理解というのが、他者の考えていること、みているものがわかるという意味だった場合、
沙耶と郁紀が互いに互いの理解を求めた時、
それを成し得るのは融合しかないと思います。
上部で書いた「例えば、他者が幸せかどうかの判断をするのは、最終的には自己でしかないのではないでしょうか」ということです。
沙耶と郁紀が別の個体である以上、本当に同じものをみているかのか、感じているのか、もしくは同じようにみているのか、感じているのか は、わからないのです。
自己というフィルターは取り除くことができません。
上の意味で理解というものを求めるならば、そのものになるしかないように思います。
世界すらも飲み込んでしまえば、真に他者が理解でき、許容し得る価値観に収まるような気がします。
そこに別の個体という他者がいるか、、、と言えば、いないのでしょうが。
ゆえに沙耶と呼ばれる生物は孤独を運命付けられており、愛を求めて世界を侵し彷徨うことになるのではないかなんて。
他愛のない妄想です。
沙耶の唄は色々と考えることができるから面白いですねぇ。
生物がすることで重要なのって睡眠、捕食、生殖とか考えてみると沙耶の唄って無駄がないんじゃないかとかも思ってみたり。
あと沙耶に関った人間が一般的に幸福と呼べる運命を辿っていないことが面白いかなと。
郁紀が沙耶に出逢う前に正常な状態に戻っていれば、あるいは死んでいれば、アイしていなければ彼は世界を捨てることも世界から追われることもなかったわけで、それまでの世界が崩壊することもなかったわけですからねぇ
沙耶を知ってしまったがゆえに皆蝕まれていくんですよねぇ、凉子センセの言うことはきくもんだ。
アイ?を知った沙耶にしてもですね。
まさに禁断の果実っ、沙耶(笑
最後に一つ。(追記)
Trueエンドでは、沙耶が世界を飲み込み、彼女に包まれることで郁紀は彼らの世界を手にします。
全てが自己を許容する世界って、郁紀にとっては母体回帰に近いような気もするのです。
沙耶の唄が純愛であるか否か?という話題がありますが、どうなのでしょう。
世界を捨てた彼らは互いさえいれば良いと思うようになっている節があります。
しかし、世界を捨てた彼らにとって、相手すらも必要ないのではないでしょうか。
相手が本当のことを言っているという絶対的な証拠はないわけです。
理解していると思っていた親友の郁紀に耕司は裏切られました。
また、受け止め方(感じ方)が変わってしまえば、価値観などいくらでも変容することは郁紀が経験してきたことです。
ゆえに絶対的な価値というものも存在しないように思います。
例えば、他者が幸せかどうかの判断をするのは、最終的には自己でしかないのではないでしょうか。
沙耶と郁紀は逆の立場にありました。
自己を許容してくれない世界に在った沙耶、自己が許容できない世界に在った郁紀。
郁紀の価値観の中で“是”とされた沙耶を求め、沙耶もまた自身を“是”としてくれた郁紀を求めるようになります。
是とできなことを悩んでいた、是とされないことに苦しんでいたはずが、受け入れられる、受け入れてもらえる対象を得てからは、問題として上がらなくなるんですよね。
干渉こそが問題であって、関ってこなければ彼らは平穏に暮らせたような気がします。
しかしながら、“是”を求めた彼らが迎えた結末に、はたして対象が実在している必要があるのでしょうか?
例えば、元の世界に戻った結果、自己の世界に閉じ込められることになったとして、対象の幸せを願い続けるだけ、幸せに暮らす姿を夢想するだけになった場合、触れることのできない対象が存在している必要があるのか?
自己の世界の外に存在し、触れることのできない対象は本当に存在していると言えるのでしょうか?
例えば、死に別れる瞬間、対象との幸せな生活が自己だけにみえたとして、その瞬間に対象が存在していると言えるのか、存在する必要があるのか?
例えば、自己の価値観に沿った世界に生まれ変わったとして、自己以外の存在が本当に存在しているのか。自己を許容しない存在が全くない世界とは成しえるのか?
許容するという理解を求めた場合、最終的には自己の中で完結しているような気がします。
郁紀にとってはどれもがハッピーエンドと言え、彼と数人を除いては、どれもがバットエンドと言えるような気がします。
「おかえり」という台詞はどのエンディングからも繋がるのではないかなぁと。
こんなふうに書きましたけれども、沙耶を得るために世界を捨てているわけで、何かしらの他者を求めているんですよねぇ。
沙耶の唄が面白いのは、沙耶という生物が本来持っている行動と沙耶が郁紀を求めた結果辿り着いた行動が同じということかなぁとか思います。
繁殖行動の過程として恋愛行動を理解したために繁殖できなかった沙耶。
郁紀と出逢ったことで行われることとなったそれは、沙耶という生物が持つ特性からだったのか、それとも恋愛の結果なのでしょうか?
沙耶の唄で描かれているのは純愛なのだろうか。
沙耶の唄で描かれている愛は呪詛ではないだろうか。
沙耶と郁紀の物語が愛であるならば、それによって周囲を、最終的には世界をも崩壊させました。
世界を侵す愛(恋)ではなく、愛が世界を侵すのではないか。
探究心によって沙耶を愛した奥涯のように
友情によって身を滅ぼした者のように
出逢ったがゆえに、それ以外を失う男のように。
それはね その砂漠に――たったひとりだけでも――花を愛してくれる人がいるって知ったとき
・・・・・・わたしを愛してくれた、あなたに・・・・・・この惑星を。あげます・・・・・・
少なくとも一般的な恋愛感情で始る物語ではないと思います。
そして恋愛の過程を描いてもいない。
奥涯は沙耶の開花は愛すること、愛されることがなかったから行われなかったと書きました。
しかし、沙耶の開花は愛がなければ成り立たないが、その行動自体は生物の持つ機能であるとして書いています。
これは、開花という現象が純粋に愛だけによるものではないことを示唆しているのではないでしょうか。
あるのは始まりと終わり。
果たして本当に、彼らの物語は愛であったのでしょうか。
そもそも“本当”というものがあるのかどうかすらわからない気がします。
妄想を一つ。
もし、理解というのが、他者の考えていること、みているものがわかるという意味だった場合、
沙耶と郁紀が互いに互いの理解を求めた時、
それを成し得るのは融合しかないと思います。
上部で書いた「例えば、他者が幸せかどうかの判断をするのは、最終的には自己でしかないのではないでしょうか」ということです。
沙耶と郁紀が別の個体である以上、本当に同じものをみているかのか、感じているのか、もしくは同じようにみているのか、感じているのか は、わからないのです。
自己というフィルターは取り除くことができません。
上の意味で理解というものを求めるならば、そのものになるしかないように思います。
世界すらも飲み込んでしまえば、真に他者が理解でき、許容し得る価値観に収まるような気がします。
そこに別の個体という他者がいるか、、、と言えば、いないのでしょうが。
ゆえに沙耶と呼ばれる生物は孤独を運命付けられており、愛を求めて世界を侵し彷徨うことになるのではないかなんて。
他愛のない妄想です。
沙耶の唄は色々と考えることができるから面白いですねぇ。
生物がすることで重要なのって睡眠、捕食、生殖とか考えてみると沙耶の唄って無駄がないんじゃないかとかも思ってみたり。
あと沙耶に関った人間が一般的に幸福と呼べる運命を辿っていないことが面白いかなと。
郁紀が沙耶に出逢う前に正常な状態に戻っていれば、あるいは死んでいれば、アイしていなければ彼は世界を捨てることも世界から追われることもなかったわけで、それまでの世界が崩壊することもなかったわけですからねぇ
沙耶を知ってしまったがゆえに皆蝕まれていくんですよねぇ、凉子センセの言うことはきくもんだ。
アイ?を知った沙耶にしてもですね。
まさに禁断の果実っ、沙耶(笑
最後に一つ。(追記)
Trueエンドでは、沙耶が世界を飲み込み、彼女に包まれることで郁紀は彼らの世界を手にします。
全てが自己を許容する世界って、郁紀にとっては母体回帰に近いような気もするのです。


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